エピソードコンテスト一覧

作品No.1 知人が小林市に住んでいる関係で宮崎市へ帰省の時に立ち寄るが、特に秋は途中の「萩の茶屋」で見事なお花畑に感動し、知人が茹でた新そばを食べることが楽しみである。また、関之尾滝を眺め、有名な「熊襲祭り」を見る時には古代の日本武尊の熊襲退治を想起してしまう。天孫降臨ゆかりの日向の国の原点がここ小林市周辺に自然と醸成されているとしか思えない。また、市民ののどかさ、温かさなども接する度に強く感じられて恵まれた自然環境とともに住み心地の良さが理解できる。それゆえに移住するには持って来いの土地柄である。因みに知人も40年前に宮崎市から移住して今日を迎えている。
作品No.2 私の思い出楽しかった田植えの終わった後の「さのぼり」当時は雨合羽など在りませんでした帽子の代りは「ばっちよ傘」コートの代りは「みの」でした.それでも雨は防げました。「さのぼり.ばっちよ傘.みの」今の世代には通じない言葉だと思います「みのは」しゆろの木の「ヒゲ」を使い着くった物です。
作品No.3 大変だった「ぼんがま」昭和36年代です。今で言う川でのキャンプです。同級生3人でお盆に「夏休み」「ぼんがま」をしました。
テントは無い時代です。竹.木を切り、ほったて小屋を造り泊まる場所を確保し、米、塩、スイカ持参で準備播但、おかずは魚を採り食べ明かりはローソク、お腹も満腹、だれとなく眠ってしまいました。寝るまでは雨は降っていなかったけど、いつの間にか雨が降ったのでしょう。気が付いた時には親が心配して向かいに来ていました。川の水は増水し持って来たスイカは、プカプカ浮いて水は寝ている足元まで。でも楽しい思い出です。
作品No.4 先日実家に帰省。母(76)が母の妹の小さい頃の話をしていた時「〇〇は、はしいぐらんごがはえかったとよねー」と言ってました。
はしい→走るですよね、でも”ぐらんご”って!!他にぐらんごを使う言葉があったでしょうか?
子どもの頃は毎日”はしいぐらんご”してましたよね。熊本県人の主人には通じませんでした。ふふふ。
作品No.5 わたしが小学生だった時、少し見た目が怪しい洋装の喫茶店に連れて行ってもらいました。
その建物を見た瞬間、小林出身のおじさんが「まーんが出っど。」聞いたわたしは、「???」
その意味を知って以来、小林にいるいとこを怖がらせるためによく使っています。「言うこと聞かんと、まーんが出っど!」
作品No.6 長崎の海岸沿いの町で育った私が、こちらに嫁ぎ、驚いたことは、生肉を刺身で食べるということです!地鶏のたたきを、おいしいよとすすめられたときは、びっくりしました。生で食べる刺身は魚だけと思ってたので、鹿や鶏など、肉を生で食べるのは信じられませんでした。
作品No.7 27年前、長崎からこちらに嫁ぐことになり、小林で結婚式をあげました。私は緊張してたのでわかりませんでしたが、神前式で御神酒を飲んだ親族が、焼酎が入ってたとびっくりしてました!お祝い事にはすべて日本酒が当たり前と思ってたので、焼酎にはかなり驚いていました!
作品No.8 小林に滞在した友人の話。友人にとって、ティータイムに急須と漬物がお盆にのって運ばれてくるのは奇妙な光景であった。友人は私の祖母から小林弁を話しかけられ、愛想をよくしてその場をしのごうとしていた。
「かまんね」(祖母)
意味もわからず相槌ちと笑顔で返す友人に、祖母は箸でお漬物を掴んで差し出した。友人は一瞬戸惑い、頬を赤らませた。そして手を出さずに口を開けたのである。祖母も私も大笑い。受けとる箸も皿もないので口を開けたのだという。』お茶請けに漬物、そしてそれを手に受けるという風習は、異文化らしい。この出来事から25年あまり、時々思い返しては含み笑いし、今は亡き祖母を思い出す。
作品No.9 私が小学校低学年のとき。国語のテストで友達が「犬」いぬの読み仮名を「いぬ」ではなく「いん」っと書いて間違いとなっていた。たしかに間違いではあるけど、小林弁では確かに「いん」と聞こえるよなぁと感じた。
作品No.10 父と祖母の会話の一部で「もぅこえもこえがよ。」このとき私は何が恐いんやろって思ってたけど、あとから聞いたら「体がしんどいもしんどい。」って意味やったことにビックリした。
作品No.11 そがましチャンネルがあっとこで、逆入れてち言っしもて、はぁーちいう顔されっせげんねもげんねがったがよ。
関西に就職して1人暮らしをはじめた頃に、友達の家でチャンネル逆入れてって言ったらなに??って言われて都会はチャンネルの数がいっぱいで逆もなにもないんだなーと思ったエピソードです。
作品No.12 義父が作る年越しそばを、初めて見たときは、麺が太くて短くて、これがそば?とびっくりしたものです!食べるとねちょっとした舌触りで、私は苦手でしたが、本物のそばだとわかったせいか、年をとったせいか、食べられるようになり大晦日になると、今は亡き義父を思い出します!
作品No.13 26年前、初めて主人の実家須木に遊びに行った時のこと、よく来たと、お茶を手渡しして下さり、次にお箸で漬け物を出され、えっ?何?どうするの?とびっくり!まさか手のひらで頂くとは…お菓子もお箸で頂き、無理やり食べさせるの?と思ってましたが、遠慮がちな市民性におもてなしの心がそうしてくださるのかなぁーと、今はほのぼのする光景です!
作品No.14 私は小林市ではなく隣の高原町から、バイクで通学しています。つい最近、雪が降った日の朝いつも通りバイクで通学していました。そしてふと、「空気がおいしい!」と思いました。おいしいご飯を食べて、きれいな空気に包まれて…。改めて「私は素敵な環境で勉強ができるんだ」と思った朝でした。私はもう少しすると卒業して福岡へ進学します。でも高校時代を過ごした小林に将来恩返しができるような人になりたいです。
作品No.15 家族の誰かが「テレビ反対にして!」と言うと、我が家では普通にチャンネルをUMKからMRTに変えます。しかし、他の県でこれを言うとテレビ本体を反対にしてしまうのではないでしょうか。NHK以外のテレビ局が2局しか放送されていない小林市特有のセリフだと思います。
作品No.16 以前、臨時の小学校教員として、宮崎から小林市内へ通勤していました。子どもたちの言葉、生活の様子から滲み出てくる、出まくっている小林の文化に毎日驚愕し、小林が大好きになりました。東京に住むようになった今は、勝手に小林出身ということにしています。
○「のんかた」飲み会大好き小林人な親御さんの影響を受けてか、2年生児童が図工作品に付けた名前。
○「あそんがー!」が昼休み開始の合言葉。
○ 霧島連山を見て「山」という字を習う。
○「○園」さんがやたら多い。居住地まで大体特定できる
作品No.17 寒くなると結露をする。お風呂に入ると必ず私の頭や背中に水滴がポツンと落ちてきて・・・「いしちゃ~」この言葉の由来は全然分からないけど、どこに行っても小さい頃から、冷たい水が落ちてくれば「いしちゃ~」と言ってしまう。
先日子どもに「なんで冷たいって言わないの?」と聞かれても「とっさには「いしちゃ」しか出てこんもん!」と言うしかない。
この短いフレーズにいつも西諸弁のおもしろさを感じてしまう。
作品No.18 白髪染めでかぶれた父。治療代が出るのか薬品会社に電話をするという。「東京の会社だから標準語でね。」と念をおす母。馬鹿にするなと言わんばかりに受話器を握る父。「あーもしもし。」いいぞ、よそゆき声。「あんですねー。」いかん、始まった父の「ですね」を付ければ標準語という勘違い。「びんたん毛を染めたならですね、ものができっせーしゅいがでっとですよねー。かいもかいっですが医者どんに行たならどひこばっかい戻っくいもんですかねー。」を繰り返す。父よ。聞こえていないのではない。東京の人にその状況は通じていないのだ。「こらぁ。話が合わんがよ。」敗北感など微塵も感じさせず、母に代わるおめでたい父なのであった。
作品No.19 94歳になるばあちゃんに会うのはとても楽しみなのだが、耳が遠いので、話をするときは大きな声を出すのに苦労する。私が質問しても全然違う答えが返ってくるから、会話はいつもばあちゃんの西諸弁マシンガントークの一方通行。
「おまぇや、今日は仕事はよ?休んをもろたとや?」たまに聞かれることもある。
「うん、一日休みだよ。」大きな声で答えるが
「はぁ?仕事や?」と聞き返される。 「一日やすみーっ。」
「おまぇも忙しかねぇ。」・・・もぅ!また聞こえていない。
「ひしてやすんっ!」とそれほど大きな声で言ったわけでもないのに
「へ、じゃっとや、暇をもろたや。」と通じる。
西諸弁って素敵だ。
作品No.20 【食うたこっがねかやろ?】
童謡「背くらべ」。
ち~ま~き~食べ食~べ~兄さんが~♪の「ちまき」を食べたことありますか?
えっ?「ちまきちあくまきんこっじゃろ?」って?
20年前東京で結婚し、迎えた端午の節句に初めて食べた「ホントのちまき」。
心の中のリトルワタシはこうささやきました。
「きなこがちちょらんで、うんもね!」
友人は「ちまきちねったんぼのこっぢゃろ?」と言います。
もう、そいでよかやろ小林人!
5月5日に、きなこをつけっせ食べるもちもちしたものが「ちまき」ち言うこっで!
作品No.21 わたしの父は特に目立った特技や趣味を持っていたわけではありませんが、大小さまざまな大量のトロフィーを持っていて、ガラスケースの中に大切そうに飾っていました。私はそれが何の賞なのか知らず「なんかお父さんってすごい人なのかも…」と漠然とした尊敬の念を抱いていました。物心がつき、ふと気になって母に聞いてみると「ナンコ」のトロフィーとのこと。詳しくなかったものの、いつもモエで繰り広げられているあの遊びか…と少しガッカリした覚えがあります。そして大人になった今、ナンコの難しさを知りました。ベロベロによくろた玄人に絶対に勝てないのです。その奥深さを肌で感じ、ちょっと父を見直しています。
作品No.22 祖父は元猟師で、ウサギやハトなどをよく捕まえていました。庭で突如行われる解体ショーが私は大好きで、他の孫が「こわーい」と言って逃げる中、祖父のそばで一人「皮ってそうやって剥くんだ!」「おいしそうやね!」と歓声を上げながら眺めていたそうです。鶏を「こしたえる」のを見るのももちろん好きで、祖父から無言で渡される足で、ジャンケンをするのがたまらなく楽しい時間でした(切り口から出ている腱を引っ張ると指が曲がるので、それでグーチョキパーをする遊び)。今では庭先での解体を目にする機会は減っていますが、見るとあの楽しかった時間を思い出します。
作品No.23 健康も気になる年になり、最近、徒歩や自転車で出勤をするようにしています。それで気付いたこと。中学生や高校生のあいさつがスゴい。自転車での通勤初日、反対車線で自転車に乗っていた中学生らしき子にあいさつを受けたときには流石にビックリしました。その距離約10数メートル。けっこう離れた距離で、それなりに早く動く2人が、あいさつする。これってけっこう珍しいことなのでは、と感動しました。
作品No.24 夜遅くに帰宅して、真っ暗闇の中男性の低い声で
「こんばんわ」びくっとする私。
え?怖い!!と思っていると、近くの男子高校でした。
挨拶してくれる小林市ならではの笑い話です。
作品No.25 車の運転中、前の車が左折しようとしたんです。
その先には横断歩道。
前の車両は小学生が渡るのを待っていました。
そしたら、小学生が走って横断歩道を渡って
そこまでは普通だったんです。
そこから、横断歩道を渡りきった小学生がくるりと回って
車に深々と一礼。
交通マナーは色々あるけれど、こんなにほっこりした午後は小林市ならでは。
作品No.26 小林市の飲み会は多いけど、
うっ立ち上げ、中立ち上げ、打ち上げ
どんだけ酒が飲めるなんだよ!
天国かよ!てなもんです。最高です。
作品No.27 小林市に来て飲み会の多さにびっくり!
それだけではなく飲み会がスムーズにいく工夫があって
びっくりです。
ヤカンにお湯割!
画期的!!しかも日本酒ではなく焼酎で徳利で出てくることにもびっくりです!
作品No.28 二次会へは一次会の一升瓶を抱えて行く!
作品No.29 とある飲み会。年配の人が、お湯割りのグラスを私の前に差し出してきた。「なんでこのタイミングなんだろう?」と思い、自分のグラスをコツンと当て乾杯した。まえを見てみると「え?」という顔をしている。他の人を見てみると、渡されたお湯割りを飲んでいるではないか。なんとも不思議な習慣だ。
作品No.30 県外の飲み屋さんに行った時。いつもと同じように、水割りを一つと頼んだ。当たり前のように、焼酎の水割りが出てくると思いきや、ウィスキーの水割りが出てきた。小林市民の焼酎への愛の大きさを感じた出来事だった。
作品No.31 「焦げ飯」と「へぐろ」
台所の煙突から煙が上る。火吹き竹を使って、焚き付けをして釜戸で飯を炊く。からいも半分とくず米半分の粗末な飯。火加減はするものの羽釜の底には焦げ飯(こげめし)ができる。学校から帰っても、何もおやつのない戦後間もない頃。食べ物がなくて「えぎれ」になり全身から力が抜けた。そんなとき、焦げ飯を板状に剥がして手にして食った。 羽釜の底は、煤(すす)で真っ黒。これを「へぐろ」と言った。へぐろは、ガイシ(軽石)や藁を束ねて、たわし代わりにしゴシゴシと洗い落した。そう言えば、甘酒も厳寒の頃残り少なくなると、壷の内側に固まりこばりついた。それを、焦げ飯と同じ様に剥いて食べた。生きるのに精一杯の時代の話。
作品No.32 「あかぎれ」と「手前味噌」
何もない戦後間もない頃。着る物もふせだらけ。履くものもなく、分限者(ぶげんしゃ)の子どもだけ靴。ほとんどの子どもは裸足で、冬の冷たい道を学校へ通った。足の裏に「あかぎれ」が出来てくる。足裏が切れて溝状になり、赤く血が滲んでくる。その溝に味噌をすり込み、いろりで温めた「焼け火箸」を当てて荒治療した。子どもは言うことを聞かないと、祖父や父親から、その火箸で頭をコツンと叩かれた。 なお、醤油や味噌は各家庭で作られ、その家ならではの味があった。「手前味噌」と言って、自分の家庭の味噌を自慢した。子どもは、小菜園(こざえん)でできたキュウリを二つに切割り種を除き、醤油ダルのもろ味を挟んでおやつ代わりにした。
作品No.33 「囲炉裏(いろり)(ゆるい)」と「炬燵(こたつ)」
土間に近い囲炉裏は、生活上一番重要なものであった。一家くつろぎの場、煮炊きや湯沸かし、食事の場であり、子どもをしつける場でもあった。寒い時は暖をとり、暗い部屋を明るくする役割も果たした。
火種が消えないように、火の伽(とぎ)をくべていた。火の伽は、堅い材木の丸太を使った。囲炉裏を使わない時は、灰をかぶせておいた。暖炉の中央には、自在(じざい)鍵(かぎ)(ずれかっ)があり、湯を湧かし、煮物をするとき鉄瓶や鉄鍋を吊るした。からいもは、熱灰の中で、川魚は竹串に刺して、ひぼかした。煙は、家の材や藁屋根をいぶした。ときには、猪の肉が囲炉裏の上に吊るしてあった。
囲炉裏の後、掘炬燵となった。最初は、火消壷で作った消し炭を火源としたが、そのうち練炭になった。囲炉裏の木灰は、灰汁(あく)を取りあく巻きを作るのに使った。
作品No.34 「白砂(しらす)」と「霜解け(しもどけ)」
正月が来ると、底や氏神様の所に「白砂」を蒔いた。白砂は、荷馬車で運んだ。白砂堀りで生埋め事故も発生した。スコップで白砂を庭に撒(ま)くと雪が降ったように白くなった。温かくて雪が降らない南九州に生まれた風習のようにも思える。
しかし、白砂を撒く理由は、他にもあった。冬になると霜解けがひどくなる。その霜解けを防ぐのが目的だったらしい。農家では、冬になると、籾(もみ)を自然乾燥した。藁(わら)を庭いっぱいに広げ、その上に「むしろ」(むしと)を並べ籾を乾燥させた。霜解けで、庭がビショビショになると「むしろ」が湿り困ったものだ。なお、米は俵に詰めて国(政府)に供出をした。俵は、夜鍋をして各農家で作った。
作品No.35 「焼酎飲み」と「ナンコ」
焼酎飲みが始まると、必ず「ナンコ」があった。「ナンコ」は、数当てゲームである。一人3本ずつ「ナンコ玉(棒)」を持つ。そのうち、何本かを手の平に覆い隠して、相手に見えないようにする。時には、わざと一部を見せて、相手を惑わせる。相手のもっている数を当てたり、自分のものと合わせた数を当てたりする。
数の言い方が独特で面白かった。例えば、「犬のしょんべん」といったら「3本」のこと。犬が小便をするとき、片足を上げると残り足が3本だからである。「下駄ン歯」は二つあるから「2本」。「小林」は「市」だから「4本」。「おんじょんぼ」と言ったら、「夫婦」だから「2本」。言葉のやり取りを聞いて面白かった。負けると杯(さかずき)につがれた焼酎を飲まされた。
作品No.36 「生(なま)梅(うめ)(なまうんめ)」と「砂糖(さとう)黍(きび)(さときっ)」
とにかく食べる物がなかった。そこで、いろいろなものを食べた。「生梅」もその1つ。6月の梅雨時、梅の実が大きくなる。子ども達は、片方の手の平に塩をもち、生梅を食べた。当時は、「赤痢」「疫痢」という伝染病が流行って隔離された。「生ものを食べたらいかん」と親に言われた。しかし、「塩をつけると大丈夫らしい」といううわさがあり、それを信じた。
畑の境界に植えた「砂糖黍」(さときっ)も、貴重なおやつであった。砂糖がなく甘い菓子もなかった。砂糖黍の穂が茶色に色づくのが待ち遠しい。茶色になると根元から切り倒し、節ごとに短く切る。竹のように縦に裂いていき、出てきた中身をしゃぶり糖分を吸う。しゃぶりカスは、ぺっと吐き捨てた。
作品No.37 「めじろ籠(かご)」と「馬の尻尾(しっぽ)」
「めじろ籠」をよく作った。常にポケットには「肥後の守」のナイフを持っていた。竹を裂き削って、器用にひごを作った。二段の落とし籠は、上の段を罠(わな)にした。下の段のおとりの泣き声に誘われて「めじろ」が籠に近づく。上段のえさに目を奪われチョンと枝に止まると、蓋が閉まって捕獲をした。
馬の尻尾の罠も懸けた。馬の尻尾は長い。1m近い尻尾を二つに折り、よじって罠を作り菜の花畑に仕掛けた。えさをばら撒き、わなを固定する。鳥は足を動かしてえさを探す。足を動かしたときに、尻尾の輪がきゅっと締まる。授業中も、罠のことが気になる。学校が終わると一目散に罠へ走る。草道は当然の時代であった。勉強以外のことで、心をドキドキさせていた子どもの頃の話。
作品No.38 「畳掃除」と「煙突掃除」
年末の大掃除は家族総出であった。
畳は、部屋から全部上げて庭に干した。畳と畳を三角形に向い合せて立て掛けて、陽が当たり易いようにした。このとき庭先は、子どもにとって格好の遊び場所となり鬼ごっこをした。畳を元に戻すとき、床板にはDDTなどの農薬を振りまいた。その上に古新聞を敷いて畳を置いた。当時は「蚤(のみ)」や「虱(しらみ)」などが多かったからである。
風呂や釜戸の煙突掃除もした。朝夕に各家の煙突からは、煙が上がっていた。竹の先に藁を巻きつけたものを煙突の上から入れて、上下に動かすと、内側についていた煤(すす)が大量に落ちて来た。
焚き物や焚き付けの杉の葉などは、子どもが里山に行き取って来た。二宮金次郎のように背中に背負って・・。
作品No.39 「台風(うかぜ)」と「蚊帳(かや)」
子どもの頃、家は藁葺(わらぶき)屋根でガタガタの雨戸。台風が来ると怖かった。天井がないので、屋根裏が丸見え。強風で屋根が浮き沈みして組んである竹がしなった。雨戸は物干し竿などでくくり付けて飛ばないようにしたが、幾度となく雨戸は飛ばされた。部屋中に蚕(かいこ)(けこじょ)を養っていたので、台風が来ると大変であった。雨漏りは何箇所もするし、停電になり油皿(ことぼし)を灯して一夜を過ごした。
には雨戸も開きっぱなし。蚊は部屋に入ってくるし、カナブンは白色燈の灯りを目指して飛んで来る。それを防ぐため、蚊帳を部屋につった。色は青か緑系統であった。部屋の四方に紐があり、蚊帳を結びつけた。夕立が来ると、蚊帳に飛び込んだ。雷から臍(へそ)を取られないように…。
作品No.40 「卵」と「鶏肉」
子どもの頃、鶏は放し飼いであった。家の中にも上がり込んだ。畳などに糞をした。追い立てられた鶏は、廊下から庭に何メートルも宙を飛んで逃げた。
鶏は、藁(わら)を積んだ小屋や床下を住処(すみか)としたが、定住することなく転々とした。「コッコッココケッコッコ」と鳴き声を出して出てくることがあった。「そら、卵を産んだぞ。どこか探せ。」と子どもは卵探しをした。卵焼きは、ご馳走であった。最高の弁当のおかずであり、みんなに見せみらかしたものである。親鳥が卵を抱いて、ある日孵化して、ピヨピヨと、雛(ひな)を引き連れて出てくることもあった。
鶏肉は、唯一口にする肉であり、田植えが終わった後の「さのぼい」や正月には、各家でつぶして食べた。今では、お盆に魚や肉を食べる家庭が多いが、むかしは、絶対に許されなかった。魚釣りや虫取りをすることも固く禁じられていた。
作品No.41 愛宕神社の思い出
愛宕神社の思い出
毎日曜日の早朝は小学生による石段の落ち葉のはき掃除があった。落ち葉の量は多いのだが、いつものごとく高学年の先輩達は話に夢中になりほとんど手が動かない。当時は低学年は先輩達を敬いそれが当たり前のようだった気がする。そして遊びでは高学年の先輩達が低学年のものを守ってくれていたような世界だったと思う。中学生は小学生から見れば大人と同じに写っていたように思う。隣の町内との小学生同士のけんかの時も負けそうな時だけ相談していた。
六月灯、十五夜祭のシラスとり、大人達の弓の練習、ふくろうの実とり、ターザンごっこ、防空壕探検、追いかけごっこ、手裏剣、やぐら、草そり、スケートなど愛宕神社全体を使ったいろんな思い出はきりがない。